豊橋鉄道100年史 1924-2024
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75昭和63年当時の東三河における高速道路計画とリゾート開発構想渥美半島開発会議の発足ていた。一方、東三河地方では、高規格道路の建設計画が着々と進められていた。第4次全国総合開発計画にも、第2東名や三遠南信自動車道が組み入れられ、伊勢湾架橋も21世紀までの着工を見込んでいた。加えて愛知県の事業として、渥美縦貫道が計画されている。これらの完成後には、当社の沿線は首都圏や関西圏と直接結ばれ、北の中部山岳地帯と南の南紀海岸リゾート地帯に挟まれた一大レクリエーション基地になることが想定された。このような背景のもと、当社は昭和63年4月1日に新経営5カ年計画をスタートした。この計画を進行するために設置した分科会のうちの一つである観光開発分科会は、渥美半島の伊良湖岬から豊根村の茶臼山までの120㎞圏域に着目した。この圏域では、渥美半島で菜の花が満開になる1月に、奥三河の茶臼山ではスキーが楽しめる。こうした特性を生かした開発を進めることで、日本の休養地になり得ると確信したのである。以降はリゾート開発の方向性や、展開すべき施策、プロジェクトなどを集約し、「120㎞構想」を取りまとめることに注力するようになった。渥美半島は日本で有数の観光資源を有しながらも、開発が遅れていた。名鉄グループ各社が開発に取り組んできたが、共通認識のもとで一体的に取り組む意識が弱かったためである。また、地元リーダーである当社が、中心的役割を果たしきれていなかった。そこで、当社は昭和60年9月、名古屋鉄道㈱や伊良湖地区の名鉄・豊鉄グループ各社、豊鉄労組とともに、「渥美半島開発会議」を発足させた。1回目の会議では、以下の取り組みテーマを決定している。① 豊鉄ホテル伊良湖のグレードアップ計画② 渥美フラワーセンターのリモデル計画

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