豊橋鉄道100年史 1924-2024
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46柳生橋支線さようなら運転(昭和51年3月6日)井原−運動公園前間開通式と記念花電車岩田運動公園の完成と市内線延伸を祝い駅前大通をパレードする藤ノ花女子高校鼓笛隊井原-運動公園前間延伸開業市内線全線ワンマン化運輸・建設両省への廃止許可申請が昭和51年2月28日に許可され、同年3月6日のさようなら運転をもって約50年にわたる歴史にピリオドを打った。路線の縮小だけではなく、延伸の明るい話題もあった。当時の岩田地区は土地改良によって急激に発展し、住宅や店舗が増えていた。昭和55年には、岩田運動公園の市民球場が完成したほか、各種スポーツ施設の新設計画があった。しかし、利用者の激増が確実視されていたにもかかわらず、駐車場が不足する懸念があった。このような背景により、豊橋市から観客などの足を確保するため市内線の延伸要望が寄せられたのである。当社も延伸すれば、住民の足として大いに利用されるようになると考えた。かくして井原停留場から分岐し、運動公園前まで都市計画道路の市道外郭線上を600m延伸することとなった。分岐にあたっては、井原交差点の形状からR11(曲線半径11m)の急曲線とした。昭和57年7月31日にいよいよ開通の日を迎え、各種記念行事が盛大に行われた。記念花電車の運行とともに、地元の藤ノ花女子高校による鼓笛隊が沿線をパレードし、市内は祝賀ムードに包まれた。路面電車の新規路線開通は、全国で14年ぶりとなったため、多くの人から注目された。柳生橋支線に700形ワンマンカー(大型ボギー車)が登場したのは、昭和42年12月である。従来の単車(小型車)によるワンマン2両運転を、ボギー車1両運転に合理化できた。運行間隔は7分間隔から10分間隔となったが、スピードアップによって所要時分は1分短縮した。

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