2 豊橋交通時代の事業成長32戦災復興事業が進む豊橋市(昭和26年頃の豊橋駅前)【豊橋市提供】進駐軍表記の402号(昭和27年頃)複線化移設と路線延長いよ具体化し、昭和24年4月5日、両社間で合併契約書を取り交わすに至った。同年7月31日には、豊橋乗合自動車㈱で社長を務めていた神野三郎が、豊橋電気軌道㈱第6代社長に就任している。新たな経営トップのもと、豊橋乗合自動車㈱が解散し、豊橋電気軌道㈱が存続会社となる形で合併したのは同年9月1日であった。これによって、事務的にも技術的にも合理化経営が可能となった。また、設備・資材面での交流や、本社・営業所の整理・併合によって諸経費が相当額軽減されたほか、従業員の待遇もいっそう改善された。合併は、東三河地方交通網の基礎を構築するものであることから、豊橋電気軌道㈱は同日、社名を豊橋交通㈱に改称した。新組織となり、軌道運輸部門は複線化工事を着々と進めた。バス運輸部門も路線の増強や再開、保有車両の修理や増車に取り組んだ。こうして、ようやく豊橋交通㈱として再出発体制が整ったのである。豊橋乗合自動車㈱との合併実現によって手狭となっていた本社社屋に代わり、豊橋市花田町字東郷12番地の2に新社屋の建設を進めた。竣工披露式を開催したのは、昭和25年4月28日である。本社となる新社屋は柳生橋駅前の交通拠点に位置し、移転は翌5月1日に完了した。豊橋電気軌道㈱は、昭和21(1946)年に発表された戦災復興都市計画に基づいて整備される道路の中心に線路を移設し、東田本線を複線化することを決定する。昭和23
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