豊橋鉄道100年史 1924-2024
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31豊橋乗合自動車の乗務員再建計画の策定豊橋乗合自動車との合併ばかりであった。豊橋電気軌道㈱も全線復旧したとはいえ、資材入手難で軌道の整備は行き渡らず、車両も思うように修理できなかった。異常な物価高騰で諸経費がかさみ、利益は著しく低下した。そのため、旅客運賃改正に踏み切らざるを得なくなり、昭和22年に2回、23年には3回にわたる改正を実施した。苦境にあえぐ豊橋電気軌道㈱は、豊橋乗合自動車㈱との合併を模索した。この合併には豊橋電気軌道㈱再建計画の策定という意味があった。豊橋市戦災復興都市計画工事に沿って複線化移設するとともに一部循環線を計画し、昭和23年12月13日に西宿-西八町間1.27kmの軌道敷設特許を申請した。さらに、豊橋近郊での住宅地帯発達に伴って、軌道を延長する必要に迫られていたが、少額資本であることに加えて、経済事情の悪化による資金・資材難も重なり、その実現は絶望的であった。豊橋乗合自動車㈱も、同様であった。戦後、休止路線の再開や車両増備などの輸送力増強を図ったが、資金・資材などの不足により、人口増加に伴う旅客の激増に対処できていなかった。一方で、戦時補償の打ち切りに伴って、会社経理応急措置法の特別経理会社に指定されていた。このような状況から、両社の合併が促されることとなった。市内電車と郊外バスによる総合的交通網を計画し、合理的経営によって東三河地方における輸送を充実させることとなったのである。豊橋電気軌道㈱と豊橋乗合自動車㈱の合併問題はいよ

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